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日语毕业论文(最新5篇)

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日语专业的同学们,大家毕业的时候,大家知道怎么书写一篇日语论文吗?以下是人见人爱的小编分享的5篇《日语毕业论文》,希望能对您的写作有一定的参考作用。

章 所謂「無常観」 篇一

前にも「無常」の意味を解釈したが、それはかなり簡単で、なかなか理解できないであろう。実は、論理的なことをほうっておいて無常観つまり、何時も変化している現世に対して厭きを感じると言えよう。この厭きを積んだうえ、不満や辛さも出てくる。一旦そうなると、来世や未知の極楽世界に憧れることもやむを得ずに生じる。ここの「無常」は単なる乱世に対する動揺不安に気になり、世の中のことに信念を失ったばかりではない。中国でもどの国でも、昔には必ずある揺れる時期があるに違いない。その時の人間は、あくまで厭世という感情が出てくるだけである。しかし日本中世における「無常」は、それなりの特質があると思う。その表現の具体化は出家、隠遁ということである。前回の述べたように、奈良時代から神道の陰に置かれた仏教であるが、教理と精神実質のある宗教として決してそのままではいられなかった。神道が仏教の戒律などをかり、自らを充実していこうとして、神の御前の念仏を許したわけである。しかし、実は仏教こそこの絶好の機会で宣伝されることができた。神仏が同所で、神即ち仏、仏つまり神というような錯覚は民衆の心に留まり、個人の利益を求めるために祈るなら、どんな神像に頼んでもよいではないかと思われた。

この溶け合う中で、一番影響されたのが人々の考え、特に死生観そのものである。これらの代表的な例として、『平家物語』に登場した熊谷次郎直実をあげることができよう。無骨の武士である直実は、功名心から敵の頭を切り、武勲をあげることに全精力を傾け罪悪感とは無縁なや武士的な人生を送っていた。しかし、「敦盛最後」にあるように、一の谷で、直実は彼の子供の小次郎と同年と思われる敦盛の首を、泣く泣くに切ってしまう羽目になる。その後、直実の人生に影を落としたものは、殺生を犯した者の罪業観と罪障観であった。それが彼の出家した原因とも考えられている。また、『平家物語』巻十の「戒文」を参考し、平重衡と法然 上人の交渉から、重衡の来世の死生観についてみてみよう。三位中将重衡は南都焼討で悪名高いが、治承四年十二月に平家軍は南都の敵を攻撃している最中に、図らずに東大寺や興福寺などの諸事を焼いてしまった。その後、重衡は墨俣川の戦いや水島の戦いで勝ったが、一の谷の戦いで捕まえられ、鎌倉へ護送されてしまう。彼は鎌倉へ護送の前には、法然を招いて出家しようと思った。南都の諸寺を焼き払ってしまった重衡は、罪の意識を感じ、往生への道が完全に閉ざされてしまったことを自覚した。しかしながら、どうしてもその罪障観から救済されたく、善知識である法然上人に少しの望みを託したわけである。意外なのは、ただの「一声称念罪皆除」と念すれば、何の罪でも消えていくと重衡に明快に答え、浄土宗の基本理念を表したのである。『平家物語』では、この世を無意味だとする精神が、往々にしてこの世を離れがたいものとする精神に圧倒されているのを次々の叙述の中に見ることができると思う。小松殿の息子維盛が何とかして山伝いに京都へ上がって恋しい妻子にもう一度会いたいが、生捕りになった重衡のような目には会いたくない、いっそここで出家して、火の中へでも水の底へでも入りたいと思う、という意味のことを言うと、それに対して高野聖滝口入道が「夢幻の世の中は、とてもかくても候ひなん。長き世の闇こそ心受かるべう候へ。」と、言い聞かせるところがある。そこでは、この世を「夢幻の世の中」などと言って無意味なものとする精神が、優位を占めている。維盛の妻子にもう一度会いたいという気持ちは、それを持って現世的なものへのいたずらな執着だとする仏教思想によって、抑えられている。そのあたりは一応「断ち切る」物語の様相を見せている。

これですこし分かるようになるであろう。中世、平安時代になると、仏教がようやく「神高仏低」の状態から出て、逆に「神低仏高」のように転換された。宗教の重心が変え、それに導き日本にも適切な理論が望ましかった。一番代表的なのが法然の輝いた浄土宗である。「称名」念仏という専修念仏を説いて、仏教の広がりに極大の役割を果たした。往生することがいかに簡単なことなので、信ずる者も多くなり、尊君思想をいつも心の中に置き死を恐れることのない武士たちさえも出家などを行い、来世を求める。往生を念じれば現世に対する不信がもっと深く、極楽を望めば無常についての信念がさらに強く。わずか二三百年で、まるで人々の考えが全く違い、仏教の思想が完全に人たちの頭に染み込んでいたというような気がする。しかし、神道の働きをなくしては考えられなく、むしろ神道の土台があるこそ、こんなに速やかな達成ができたのである。

.2 藩神到来 篇二

すでに天下へと仏教が広げられ、ならば万民に信仰させ、国の安泰のため仏法を発展向上させるべきである。しかし、事実はそうではなった。国家を守護し制を固められると宣伝された仏教が、最初からも政治宗教となった。朝廷に守られ、お寺などがよく町の周辺で建てられる故「都会仏教」とも呼ばれた。興隆期となった奈良時代の日本仏教は、インドと中国での伝統仏教と違い、基本的な戒律さえも離れ、僧侶は民間へ伝教するようなことをせず、単なる貴族たちに仕えるだけである。ついに国の政に手を出すこともあり、朝廷を左右する勢力となってきた。こういう時期の仏教は新たな事物として政権争いに利用され、これも後に仏教の日本化の兆候となったわけである。しかし、寵愛を一身にしても、所詮外来宗教や政治道具である。律令国家の確立に伴い、の力がますます高き、蘇我氏一族を始末してからやがて君臨するようになった。伝統権威を代表する神道も言うまでもなく新たな高位に置かれた。大化の革新に制定した「大宝律令」によると、神の祭りなどを主管する官吏はから直々の任命、太政大臣同級の者であるが、仏教諸事を処理する機構はただただ治部省所轄の玄蕃寮であった。神高仏低の状態における仏教がよい発展と権力の拡大を求めるには、やむを得ず神道にしたがうことにした。その表現の一つが神社で経文の朗読を許し、いわゆる「神前念仏」である。

初期仏教がつよい政治性を持っているのを除き、民間へ広がることのできないもう一つの原因は、人々固有の観念そのものである。宗教というと、それが現世のことを第一に、生活の安定さや幸せさを祈るはずだと思われた。ですから仏教の来世主義、死後の世界に憧れる考えが一時に納得されるわけはなかった。一方、元来ただ神社に参ることで宿願をかなえることが可能であるが、もし仏を信じるならば、山ほどの戒律や決まりを守らなければならないという恐れもあり、あまりにも実用ではなかった。これはさまざま不確定な要素に囲まれ、尊崇や冷遇の立場にあった前途不明の奈良時代仏教である。

日语学科专业毕业论文 篇三

一种文字的产生绝非一两句话能够简单的表述出来,不管是何种文字都是经历了漫长的历史演变,最终千锤百炼形成的。作为人类智慧与经验的集合体,文学作品是文字记载的手段得以流传,能够在一定程度上反应出文字的形成与发展。对于日语文字的研究,文章主要从日本古典文学的角度出发进行研究。

一、汉字的传入及万叶假名

公元四世纪,汉字经朝鲜半岛传入日本。之前,日本以口头语言为主,没有文字。汉字的传入开始日文章字的出现。也使得日本大量的古代神话、歌谣、传说得以记录保存。随着佛教、儒教等文化思想随着文字的传入,进一步的促进了日文章化的繁荣。而汉字传入日本之后,如何被接受与利用,是研究的一个重点。

《古事记》是日本第一部文字记载书籍。公元712年前后,日本命令太安万侣对稗田阿礼习诵的历史资料用文字进行记录。该书中,记录了自创世以来至时代的历史及神话传说。之后,相继出现记录创世神话以及统治历史的《日本书记》和对风土民情记录的《风土记》。以上三部著作都是采用汉字进行记录的,只是在汉字的功能使用上存在差异,很多地方采用变体的汉文字,主要原因是日本人在学习韩文字时,以日本式或者是生硬的表达造成的,该文体不是纯正的古汉语,因此也成为变体汉文;书籍中的歌谣所采用的文字后来被称之为“万叶假名”,该文字不是纯正日语中的假名,是在完全背离汉字意思的基础上,将汉字作为表音符号进行使用对如本固有词汇的读音进行表示。《万叶集》中大量的使用“万叶假名”,如“安米”表示“めめ”(读作ame,“雨”的意思)。由此可见,古代日文章学中,主要是采用汉字记录、汉文撰写的,主要是由于汉字传入日本时间较短,还没有形成日本本土文字。对“万叶假名”和变体汉文的应用,表现出古代日本人使用文字的一种倾向,在记录历史资料时,采用汉文记录,而对于抒情类诗歌的记录多以假名进行。“万叶假名”的应用也为以后的平假名和片假名的形成奠定了基础。

二、平假名的形成

平假名是在公元九世纪前后产生的,而将其称为假名也是后世出现的,最初称为“女手”,主要意思是女子使用的文字。有假名既有真名,真名也就是汉字。根据这一点可以推断,在假名出现之前,日本书写所采用的文字只有汉字一种,在官方记录和历史文献记录中管饭的得到应用。受日本封建社会发展的影响,朝廷中以男子为官为主,仅有小部分贵族男性才有机会学习汉字,对于当时的如本人而言,汉字是一种艰涩难懂的文字,所以百姓及女子很难接触到汉字的学习与使用。由于家庭式的私塾教学,为贵族女性的学习提供了机会,略有学识的女子在偷学汉字的时候,为方便记录,往往书写的比较潦草,简化了汉字符号,形成“女手”,也就是后来的“平假名”。平假名的应用一度受男性的排斥,但其由于简便书写受到文人的亲睐。

三、片假名的形成及发展

与平假名不同,片假名来源于汉字的楷书,取出负荷声音的汉字的一部分进行简化而来,是为了训读汉文而出现的,尤其是在佛经传入日本后,由于佛经全部是由汉字书写而成,日本的僧侣及文人在阅读佛经的时候,受发音不同的影响,为了记住汉字的日语发音,阅读者在该字旁,加注一个汉字进行表音。由于字间距的空间有限,因此采用汉字的偏旁部首来代替该汉字。就形成了最初的片假名,主要是以表音符号存在。到公元十世纪,片假名发展为独立的文字。由于该文字主要用于佛经阅读中,很受僧侣的亲睐。到公元十一世纪,片假名被广泛的用于记录一般性文章及诗词歌赋中。古典文学中,第一部采用“汉文训读”文体的文学书籍是公元12世纪出现的《今昔物语集》,也就是在汉字旁边用小字号的片假名进行标注,由于书中数千故事都是以“今ぃ昔”开头,以“卜ナ厶语リタヘルヤ”作为结尾,因此被称为《今昔物语集》。至此,片假名已经不单是作为表音符号,已经成为文章一种文体,有其固定的语义存在。平假名的发展经历了漫长的时候,现有的片假名文字主要是在明治时期确定下来的。二战之后,日本对文字的使用进行了规范,规定平假名和汉字混合书写主要用于普通文章,而片假名用于拟声词、外来语等的表述。至此,日语文字的使用规范得以成型。

四、结束语

通常情况下,认为日本是一个对外来文化善于接受和吸纳的民族。而对于古代日本而言,一致在效仿文化繁荣、历史悠久的邻邦中国。从文艺思潮到政治制度,从城郭建筑到水稻种植,古代日本从中国大陆文化中接受了无以计数的养分,充分的进行吸收,促进了日文章化的兴盛和繁荣。文字作为日文章化发展的基础,从变体汉字到万叶假名、平假名、片假名,日语文字经历了漫长的发展过程,并通过日本古典文学充分的反映出了日本在接受和吸收外来文化的过程。

日语专业毕业论文 篇四

中日両国の神話についての研究

[要 旨]中国は日本と隣国であり、さまざまな関係が持っている。その中に神話は 似ているところが多くて、それは両国の交流が以前からあったからと思われる。比較研究の角度から見ると、民族の境と国家の境を越えることができって、もっと広い範囲に神話文化研究が進められる。この論文は実例を列挙して比較するということを通じて,両国の神話の同じところと違ったところを捜し出して研究する。

[キーワード ] 中日両国 神話 比較

[中文摘要]中国和日本作为邻国,有着各种各样的关系。其中两国的神话相似的地方很多,应该是以前互相交流的缘故。从比较研究的角度看来,可以跨越民族与国家的界限,在更加广阔的范围里推进神话文化的研究。同时,通过列举实例进行比较,找出两国神话的相同点和不同点。

[中文关键词] 中日两国 神话 比较

はじめに

原始人は自然の中で起こったことにはなんとなく理解できなくて、それは神様の指示であると思った。だから、原始人の生活習慣、原始信仰、自然に対する態度などが神話に現すことができる。神話は以前の人類が自然を探して、知識と成果を取るの芸術の表現として、非常に魅力がある。中国と日本はアジアの東部の二つ偉い民族をとして、素晴らしい神話をうまれた、それに両国の交流も頻繁で、伝われる神話は人類の文化史の珍宝だと思われる。しかし、両国の神話はまったく同じというわけ ではなく、そして本文は比較法によって、両国の創世神話(特に中国の盤古、女媧と伏羲;日本の「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」の創世神話)を比較して、両国神話の共通所と違う所を発見する。1.中日両国についての典型神話を列挙する 1、1中国の神話

中国の神話には主に三人があり,盤古、女媧と伏羲である。盤古は天地を造るために、自分を犠牲したから、皆の印象でとても偉大なイメージである。女媧という独身神は、神話で人間の頭と蛇の体からなっている。神話によると、人間は女媧に造られた。伏羲は父系社会に入ったら、創りだした神様である。彼は女媧と一緒に世界を創造した。1、1、1 盤古

盤古は卵の中で生まれて、卵と一緒に成長した。一日中、3.3メートルぐらい高くなった。高くなるにつれて、盤古は自分の体で天と地を分けた。天と地の距離が4500万メートルぐらいで、盤古の高さも4500万メートルがあった。盤古は自分の体で天と地を支えているから、とても疲れた。とうとうに、苦労のせいで死んでしまった。盤古が死んだ後、彼の体および各器官がさまざまなものになった。[1]気、つまり彼の息は風と雲に変わり;声は雷となり;左の眼は太陽に、右の眼は月となった。そして、手足は東南西北の頂点に添えられ、胴体は泰山、衡山、崋山、嵩山、恒山の五つの山に変わり、さらに彼の血液は川となり、筋は道に、肉は田畑に、毛は星星に、皮は草や木に、歯は宝石に、汗は雨に変わった;それから盤古の体にある虫が人間に変わった。[2] 1、1、2女媧と伏羲

ある民間神話によれば、女媧は宇宙王のお嬢さんであった。罪を犯すので、人間まで派遣された。荒涼としている自然を見ると、非常に悲し い感じがした。彼女は川辺に沿って歩いて、水面に逆さに映っている自分の顔を見ながら、川の泥で泥人を作った。それで、人間が生まれた。女媧も非常に偉大な神様であった。彼女は創世しただけでなく、世界を救った。彼女は五色石を製錬して、天の穴を繕った。それで、人間は正常な自然の中で生活できた。それに、女媧は巨大な亀の足を切り落として、それによって天と地を支えていた。だから、天と地はずっと平穏であった。人間は安心して作業できた。[3]女媧は母系社会で独身神であったが、父系社会になると伏羲の妹さんになっただけでなく、奥さんまでもなった。中国の苗族の古文献によると、「天は大雨を降らし、人は誰もいなくなってしまって、ただ伏羲と女媧の兄弟二人だけになってしまった。そこで、伏羲は女媧と夫婦となることが欲しいが、女媧は兄弟であるため夫婦になるのを望まない。しかし、伏羲の求めを断ることもできずに困った。そこで、一案をこうじて、伏羲にこう言った。「もし、あなたが私に追いつくことができたら、夫婦になりましょう。」そういい終わると、女媧は大きな木の廻りを走り出し、伏羲はそれを追いかけた。しかし、伏羲はどうしても女媧に追いつくことができなかった。そこで伏羲も妙な考えを出して、廻っていて方向を逆に走り、女媧を前から捕らえた。女媧は伏羲の胸に抱かれた。こうして二人は夫婦として子を産み、子孫を作っていった。」[4] 1、2 日本の神話 1、2、1 五名「別天神」と七代神様

日本の独身で世界を作る神の中で、まず言うべきなのは世界を創造した五名「別天神」である。第1位は天之御中主神(あめのみなかぬし)という、天地が初めてなる https://www.haozuowen.net/ 時に高天原で現れた神である。第二位、第三位は高御産巣日神(たかみむすひ)と神産巣日神(かむみむすひ)と呼 んだ。第四位、第五位は美葦芽彦知神と天常立神と呼んだ。この五つの神は全部独身で、それに形が見えない神である。

他に、天地を創造したのは七代神様がある。それぞれ第一代は「国常立神」、第二代は「豊雲野神」、第三代は「宇比地迩神」と「须比智迩神」、第四代は「角神」と「活神」、第五代は「意富闘能地神」と「太闘乃辨神」、第六代は「于母陀流神」と「阿夜诃志古泥神」、第七代は「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」である。[5] 1、2、2「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」

『日本書紀』と『古事記』の記録によると、世界はもとは混沌とした卵と同じように、天地の分けることがなかった。それから天地は形成して、天地の中で1葦牙を産んで、そして天御中主神などの3名の産すること賢い神を化生しだした。これらの神はまた素晴らしい神を生んで、大衆の神の中に伊耶那岐神と伊耶那美神があった。伊耶那岐神と伊耶那美神は天御中主神の命令に従って、二人は天の沼矛を手に持ち、高天原と下界をつなぐ「天の浮橋」の上から、どろどろとした海原を見下ろした。そして天の沼矛を降ろしてゆっくりとかき回した。長い矛が抜き出した時、矛の鋒が垂らすもの泥と塩に沿って垂らして固まって形成した1島、名前は“おのころ島”といわれて、これは日本の国土である。二人はさっそく出来たばかりの「おのころ島」に降りていき、まず最初に「天の御柱」を立てた。天の御柱とは、神霊が昇り降りするために立てたとても太くて高い柱で、大地と宇宙を結ぶ大切な役目をしている。つぎに「八尋殿」という広い宮殿を建てた。その後、伊耶那岐神は、「おまえの体はどんなふうになっているのか?」と伊耶那美神にお尋ねた。伊耶那美神は、「わたしの体はほとんど完成しているのですが、一か所だけ、なりなりて成り合わないところがあります。」と答えた。伊耶那岐神は、「わたしの体にも一か所だけ、なりなりて成り余れるところがある。そこでどうだろう、お前のくぼんだところに、わたしのとびでたところを差し入れて、国を産もうと思うが、いかに?」と言った。伊耶那美神は、「はい。そうしましょう、では、新しい魂を宇宙からいただくために、天の御柱の周りを廻ろう」と言った。そして、まず8つの島が完成する。淡路島、四国、隠岐の島、九州、壱岐の島、対馬、佐渡島、本州。その他海洋の神、山神、川神、木神、草神、日の神、月の神などを産んで、日本に整って、充実させ始めさせる。伊耶那美神が死んだ後、伊耶那岐神は地獄へ伊耶那美神を救いたかった。黄泉国から生還をはたした伊耶那岐神は、左目を洗うと天照大御神、右目を洗うと月读命、鼻を洗うと速须佐之男命が生まれてきた。[6] 2.中日両国の神話の比較する 2、1 共通なところ 2、1、1 一つ「混沌期」を皮切りに神話が進める

両国の創世神話の中で、すべて1つの「混沌期」が存在している。それに中日両国の創世神話の中で、すべて世界を創造する神が現れた。中国の創世神話で主な代表的な神は世界を開拓した盤古と石を精錬して天を繕った女媧である。日本では記録が完備している家系があり、「七代神様」と呼ばされた神である。[7] 2、1、2 一人で生命を創造できる

男神であろうと、女神であろうと、誰でも一人で生命を創造できる。例えば:盤古は体にある虫が人間に変わった;女媧は泥で人間を作った;伊耶那岐神は体を洗う時も生命を造ることができた。2、1、3 兄と妹の関係で夫婦の関係になった後、生命を創造する

二人で世界を創造する神話であれば、二つは兄と妹の関係で夫婦の関係になったから、一緒に生命を作った。例えば:伏羲と女媧、伊耶那岐神と伊耶那美神などである。2、2 違うところ2、2、1 独身神と偶身神転化する順序

中国の創世神話にはまず独身神、それとも偶身神が世界を創造したが、日本の創世神話には世界を創造した神は偶身神から独身神に変えてきた。女媧は後期神話で伏羲と夫婦になったのに、このときの女媧はもう独身神に属しない。伊耶那岐神は伊耶那美神が死んだ後で、独身神になった。2、2、2 神様の属性

中国の創世神は人間へ行っても神様である。しかし、日本の創世神は普通な人間になったこともある。日本創世神話に、ただ神を生み出す記録があるが、人類を生み出す記録がない。実際には、ある程度で、日本の創世神話に、神と人は1つにしたので、高天原に住んだら神になり、地面に降臨したら人になったと思われる。[8] 終わりに

中日両国は神話に対する研究がヨーロッパより非常に遅くて、研究がまだそんなに深くない。以上の研究を通じて、中日両国が昔からずっといろいろな交流があったと分かる。さらに、両国が類似な環境には自分の特色を持っての文化を創造できた、両国の原始人は自分の理解によって当時のさまざまなことを解釈した。そんなに正確品書く手も、当時の人間が独立に思考できて、進歩になったのを表した。神話というものはそういう理解を反映できる。だから、両国の神話を比較と、研究と、当時に人民の生活や思考の方法を発見できる。比較法を通して、創世神話の三つの共通所と二つの違う所を得た。それぞれは下記の通り:

共通所:

1、一つ「混沌期」を皮切りに神話が進める。

2、一人で生命を創造できる。

3、兄と妹の関係で夫婦の関係になった後、生命を創造する。

違う所:

1、独身神と偶身神転化する順序。

2、神様の属性。もう一つは、この研究を利用して、両国の間で神話についての交流が頻繁になることを期待している、または両国がもっと友好になってほしいである。

[1] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社:140 [2] 严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[M]北京出版社:49-50 [3] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社:143-144 [4] 严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[M]。北京出版社:41-42 [5] 严绍璗,中西进。1996.《中日文化交流史大系[6]文学卷》[M]。浙江人民出版社:16-32 [6] _49db9eed010006l2.html [7] 张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社:127-132 参考文献 严绍璗,中西进。1996.《中日文化交流史大系[6]文学卷》[M]。浙江人民出版社

严绍璗。2004.《比较文学视野中的日本文化-严绍璗海外讲演录》[M]。北京出版社

叶显恩。2006.《简明话中国》[M]。广西出版社

张爱萍。2005.《中日古代文化源流-以神话比较研究为中心》[M]。浙江大学出版社

日本の五名「別天神」と七代神様、「伊耶那岐神」と「伊耶那美神」 _49db9eed010006l2.html 古事記のものがたり:第1話「創世の神々と高天原」

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誠信 声明

私が提出する卒業論文『中日両国の神話についての研究』は、指導教員の指導の下、独自に完成させた研究成果である。本論文の中で引用されている、いかなる形で発表された文字や研究成果についても、すべて注釈をつけている。教員ならびに関係者からの本論文に対する意見やアドバイス等に基づき、訂正したことに関しては、「謝辞」において深く謝意を述べさせていただいた。本論文および資料において、不正な箇所があれば、すべての責任は私が負うことを承諾する。

論文作者:

時:

章 仏教の日本化 篇五

紀元522年百済明王は使節を派遣、日本に仏像を献じた。よって、仏教が朝鮮半島から正式的日本へと伝わってきた。『日本書紀』によると、その献上した仏像を祭るかどうかについて、当時の欽明 の大臣たちは激しい論争に陥った。崇仏派の蘇我氏は「諸外国が尊敬する以上、わが日本国も例外なしに崇めるべし」と述べたけれども、一方排仏派の物部氏は「我が国が天照大御神に守られているながら、また蕃神などを崇拝することは、カミの怒りを招く恐れがある」と強く反発したのである。両大派閥の対立は五十年あまりという、長い時間に続いた。仏教の初登場が激しい反対の声に遭遇したのは、上記の言うとおり本来民族宗教がすでに存在しているほか、当時の政治体制にも深くかかわっていた。朝廷を左右した力は、豪族保守派を代表する物部氏や、新興貴族を代表する蘇我氏であった。前からも帰化人や大陸文化に接触し先進文化に影響された蘇我氏は、仏教を引き入れる機会で、物部氏との闘争に劣勢に処する一族の権力を固めようとした。しかし、伝統権威や民族宗教を支柱とした物部氏は、外来神の仏の伝来に対しては必ず反対の声を響かせるしかなかった。それにもかかわらず、歴史の進むプロセスはいつも止まることがないのである。どんどん政を独断してきた物部氏に、やがて皇室からの不満が出てきた。聖徳太子と手を組んだ蘇我氏は物部氏を潰してから、新たな宗教――仏教がようやく日本全土に伝わることができた。

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